モリンガパウダー

モリンガパウダーはインドを原産としたワサビノキ科の植物だ。ビタミン、ミネラル、アミノ酸がバランス良く含まれていて、いわゆるスーパーフードとして注目されている。あのクレオパトラも、デヴィ夫人も、真矢ミキも、スザンヌも、叶姉妹も、阿佐ヶ谷姉妹も、おのののかも愛用していたという。おののののののか。
味や香りは抹茶に似ているという。わたしは食したことがない。スーパーには置いていないし、やはり日常的な食材ではない気がする。スーパーフードはそういうものだ。キヌアとかスピルリナとか。とくべつである。スーパーフードを摂りたいと思わないかぎり、そうそう向こうからはやってこない。自分から掴みにいくものなのだ。努力しないで手に入るスーパーフードなどスーパーではない。スーパーにはない。

健康になりたいとはそれほど思わないかもしれない。思うのは普通になりたい、普通になりたくない。なりたいなりたいなりたい。なりたくない。そういうのばかりだ。
たぶんいまの健康状態が恵まれている証拠だろう。わたしは寒気がするとすぐ会社近くの薬局で割高な葛根湯を買って飲むし、おなかがいたくなればロキソニンを焦って買っては水なしで飲む。弱く怖がり。

何事も続けるのが大事だという。健康食品も、仕事も、勉強も、筋トレも、ならいごとも、趣味も、ひとづきあいも。ふーん。 ふうん。
続くことは続くし続かないことはつづかない。勝手にさせてほしい。
でも強制力というか外からのちからが働く仕掛けがあることでひとりでは続かないことも気づけばつづけていけていることもある。頭ではやりたいとおもっているはずなのにひどくめんどうで、腰が重くて、難儀で大儀で、しなかったことはとてもおおい。それが悪いこととは思わない。でも、あらかじめじぶんの行動を想定した仕組みとか流れを作ったほうが生活は楽なのかもしれない。

最寄りのスーパーにトイレットペーパーが戻ってきた。最初に棚に復帰したのは香り付きとかなんかよくわからない色や柄がついているものからだけど、すくなくとも家にないのに一切手に入らないという最悪の事態は回避できそう。このちいさな町にもそれなりに非常時感が漂っていなくもない。でもパンも米も野菜も今日はある程度並んでいてなんとなく安心した。流通の方たちはほんとうに忙しいだろうな。

引っ越してきてから、スーパーには週6くらいで寄っている気がする。スーパーには生活品がある。生活に必要なものを人々が日々スーパーまで買いに来る。生活に要請されてスーパーに行く。スーパーで買ったピーマンを消費するために料理をする。なくなればまた小松菜とかを買う。スーパーは生活に組み込まれ、生活はスーパーを前提とし、相互にささえあっている。

こども

こどもはこどもらしく振る舞うべきである。

 

自分が幼かったころは、周囲の大人の目から見ていかにもこどもらしく振る舞うように意識していた。無邪気で人懐っこく、よく笑う天使のようなこどもであった。それを示すエピソードがある。

 

ある日、母は幼いおれを連れて百貨店に出かけた。買い物をしていて気がつくと、おれがいない。迷子になったか、と探すも見つからず、館内放送で呼び出しをかけたところ、エレベーターガール(その昔、百貨店にはエレベーターを操作する専業の女性たちがいたのだ)のお姉さんが何やらモジモジとやってきた。

 

「すみません、お宅のお子さんだと思うのですが…」

 

母はおれが何かやらかしたのか、迷惑をかけているのではないかと気が気でなかったという。

 

「あんまりかわいいから、私たちの詰所に連れて行ってしまいまして…」

 

彼女はおれの天使っぷりにやられて、お持ち帰りしてしまったのだ。拍子抜けした母が詰所に行くと、エレベーターガールのお姉さんたちに囲まれたおれはニコニコしながらお菓子を食べていたという。未成年者略取で大きな問題になりそうなものだが、天使だからしかたがない。だってかわいいんだもの!

 

ちなみにこどもらしく振る舞うよう意識していた、というのは嘘だ。天然で天使だった。それがどこで道を踏み外したのか天界を追放され、今では疑り深く人見知りで、ウヒヒと卑屈に笑うペテン師になってしまった。

 

こどもはこどもらしく振る舞うべきである。

 

同様に大人は大人らしく振る舞うべきで、おれは平気で嘘をつく、というか隙あらば嘘をつきたくてしかたがない堕天使でペテン師だ。まさに大人らしく振る舞っていると言えよう。

あんこ

ショリショリショリ……

この世にはさまざまな対立がある。右派左派。犬派猫派。目玉焼きに醤油派ソース派。そのまえに一体その目玉焼きは片面焼きなのか両面焼きなのか。 他にもきのこの山たけのこの里か、東城綾西野つかさか、兎虎か虎兎か。

つぶあんか、こしあんか。

小さい頃は断然こしあんが好きだった。小豆の皮なんてただの不純物だと思っていた。皮は糖の吸収速度をさまたげるじゃまものだ。はやく私の血糖値をジェットコースターのようにあげさせてくれ。あんぱんはいつもこしあんが嬉しかった。

でもしばらく生きながらえていると、いつのまにかつぶあんがいいなと思うようになっていた。

あのつぶがあんこの美味しさの正体なのではないだろうか。あんこのコア。うまみ。あんこの「ん」の部分。

あ、これこしあんなんだ、うーん、べついいんだけど、じゃあわたしこっちのアイスもらうね。


人生は何が起きるかわからないですね。

わからないので、余生で自分が向こう側に改宗する可能性もある。きのこの里を美味しいと思う可能性だってこの先0.0000001%くらいはきっとあるのだ。そう思うとやはり自分がどんなに賛同できないものでも、その存在自体を否定するのは世界が狭まるさみしいことなのかもしれない。

でもやっぱ小中学校での大縄、あれ絶対人生に要らなかったよね。あれをしなくてすむというだけで早く大人になりたいと思った子どもは何人いただろうか。よかったね君も大人になって。

大人になって日々自分で生活用品や食料を選び、買い、袋に詰め、これから作る夜ごはんのことを考えながらエスカレーターに向かうとフードコートのたい焼き屋の人気NO.1はチョコクリームになっている。こしあんつぶあんどころではない。カスタードクリームでもない。ガナッシュでもホイップでもなくあの、なんかカスタードにチョコ混ぜた感じのチョコクリーム。

なんだかそのように世界は移り変わってゆく気がする。どちらも勝利はせずに。チョコクリームが。金時芋が。苺大福が。

ルジコニア

ルジコニアとはルジコニウムの酸化物である。屈折率が高く、その昔は「人造ダイヤ」として宝飾品に使われていた。人類にはある程度のお行儀のよろしくない者が含まれるのはご存知の通り、このルジコニアを本物のダイヤモンドであると偽って売り付けるケースもあったという。

 

それにしても「人造」とは夢のある言葉ではないか。自然界における希少なものを人の手で造り出す、まさに科学の勝利であると言えよう。かつて同じように人類が金を生み出そうとした錬金術においては、科学と魔術は未分化であったというから、言ってしまえば魔術の勝利である。人類は科学と魔術でできている。ぼくときみは科学的に存在し、その関係は魔術的なのだ。自分でも何を言ってんのかよくわかんねえけど、雰囲気で飲み込んだふりをして読み進めていただきたい。

 

しかしながら「人造」と名のつくものは少ない。パッと思いつくのは「人造人間」、嘆息するほど人間は巷に溢れているのというのにわざわざ人間を造る意味なんてあるのだろうか。人間は多いほどその軋轢は増すではないか。どうせなら猫とか作ればいいのに!

まあ「人造猫」ってロクでもない感じがするから作らないほうがいいよね。猫の写真に「〜だにゃ」とかピンクの丸ゴシックで吹き出しをつける人間がいる以上、おれは人造猫ってものを肯定できる気がしない。そんな奴は死ねばいいのに(←軋轢が増すではないか、の例)。

 

人造人間を造るのは「人間」を創りたいという欲望か、それとも特定の「誰か」を作りたいという祈りか。

少なくとも「人造イクラ」は顔の見えない「イクラ」を造る、というモチベーションからきているだろう。プチプチの食感を楽しむのに、個々の鮭の個性は必要ない。養豚場の豚に名前を付けてはいけないのと同じく、「このイクラはかつて某河を必死で登り、息絶えた鮭の子孫である」とか、おいしさを邪魔こそすれ助けにはならないだろう。なんちゅうもんを食わせてくれたんや山岡さん!

 

ウンチクは飯を不味くする最低の調味料なんだ。

 

そんで、「ルジコニア」に話を戻す。お気付きの向きは多かろう、正しくは「ジルコニア」である。なんだよ「ルジコニウム」って。

 

本ブログはテーマをしりとりで決める、というルールではあるが、これは人造言語、造語ではなく勘違いによるものだ。特定の「なにか」を生み出そうとする祈りではない。

きみたちもあるだろう、コメダ珈琲のあれは「シロノワール」だったか「シノワロール」だったか。おっとググるのは禁止だ。あしたの朝に目覚めるまで、モヤモヤとした感覚を共有しよう。おれときみとの関係は魔術なのだぜ。

 

いいから雰囲気で飲み込め。おねがい。

りすざる

テレビをつけると、この社会で起きたらしいさまざまな出来事をいつでも知ることができる。何も思わないこと、どうでもいいと思えることや気持ちが沈むことを耳に流し込んで、毎朝社会に出てゆく準備をする。

リスザルが行方不明になったらしいよ。12匹。伊豆シャボテン動物公園から。

伊豆シャボテン動物公園には行ったことがない。どんなだろう。シャボテンってサボテンのことでいいのかな。あのちくちくして何を考えてるのかわからないやつ。伊豆はあそこだよね。あの。踊り子号。

日毎に消えていったというリスザルたちは、やはり売り飛ばされるのだろうか。1匹50万円くらいの値がつけられるらしい。

それともリスザルラバーが連れ帰ってしまったのだろうか。動物園でも人気があるし。好きな人はリスザルのぬいぐるみを集めていたりする。それにサルの中では最も育てやすいとか。でも12匹はいらないか。

この間アジア食材屋さんではじめてヒングというスパイスにであった。事前にどんなにおいなのか調べていたけど実物はそれを遥かに上回る匂いだった。 現地では悪魔のフンと形容されている。最初の人は、よくそれを料理に使おうと思ったなあ。

リスザルはかわいらしいけど、やはりサルなので、なんとなくちょっと怖い感じがある。すばやいし賢いし道端で出会ったら負けそうだ、と思う。 リスザルのフンは匂いがしなそうと思うのは、わたしがリスザルに馴染みがないからだろうか。

わたしはまだ悪魔に出会ったことがない。 でもヒングの発するあんな匂いがするんだと言われたら、不思議とそんな気がしてくる。知らないうちにどこかで出会っているのだろうか。 f:id:hardshell:20200209175136j:plain

しりとり

ルール:本ブログのエントリのタイトルおよびテーマはしりとりで決まるものとする。

 

初回となる今回のテーマはしりとりらしく「しりとり」だ。安直に決めたぶん、なんの思い入れもないテーマであるため、さっそく頭を抱えている。

 

尻を取る、といえば河童である。河童は人の尻子玉を抜くとされる想像上の生き物であるとされる。尻子玉は人間が内在する想像上の器官であるとされる。河童も尻子玉も想像上のものとされているのであるが、誰もその不在を証明したことはない。つまり河童も尻子玉も実存するのである。現にいま俺は尻子玉が痛い。すこし体調を崩すと覿面に尻子玉が痛くなる。キリキリとシクシクと痛む。あまりに痛いので夜が更けているにも拘らず河童を探しに河原に出かけてみる、あわよくば尻子玉を抜いてもらおうという算段なのだが、残念ながらこれまで河童に遭遇したことはない。キリキリと締め上げるような尻子玉の痛みに苛まれ、ひとつの疑念が生じる。……もしかして河童っていないんじゃね?

 

河童の好物といえばキュウリだ。組成的にキュウリの98%は水分だという。ほぼ水だ。世界一キツい蒸留酒として知られるスピリタスのアルコール度数が96度、残りの4%はなんなのだと問いたくなるが、キュウリはそれさえも凌駕している。バファリンの半分は優しさでできているというから、キュウリにも1%くはいは優しさが含まれているはずだ。聞くところによると人体に含まれる水分量は50%〜75%、人間にはいったいどれくらいの優しさが含まれているのだろう。果たして1%を超えるや否や。

 

そんなキュウリばっか食ってる河童の組成もまた水分が90%を超えるはずだ。天日に干したら昆布のように旨味成分が白い粉として体表に析出するだろうか。昆布の旨味成分はグルタミン酸、干し河童を使うときは水洗いせずに刷毛などで優しく汚れを落とし、常温の水に浸けゆっくりと戻してください。河童の旨味成分のことを「グルタミンさん」と呼ぼう。誰もその不在を証明したことがないからね。

 

本ブログのタイトルを「河童の戻し汁」とする。

次のテーマは「り」から始まるなにか。